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なぜ多摩は神奈川から東京に移ったのだ?

戦略広報課です。
個人的に多摩地域に住むこともたびたび。多摩にはご縁がありまして、常に気になっている地域であります、ハイ。
そもそも多摩は「昔は神奈川県だった」って知っていましたか?今から130年前に神奈川県から当時の東京府に移ったのです。
先ごろ東京都公文書館で「東京府文書にみる多摩と東京 多摩地域東京府移管130年」の展示が開催されました。(12月19日で終了)

多摩は神奈川だった!


なぜ神奈川県にあった多摩が東京に移ったのか、展示を見逃した方のために、このnoteで多摩移管の経緯をダイジェストでお送りいたします。

江戸時代の多摩は武蔵国多摩郡にある広大な地域でした。
多摩郡の重要な道路であった甲州街道の現・府中、八王子は宿場町として栄えました。
農産物や材木、薪や炭などは青梅街道や甲州街道、多摩川などの水上交通で江戸へ運ばれました。
また江戸に住む武士や商人らの飲み水となる神田上水、玉川上水などの水源も多摩郡にありました。

当時の府中
こちら八王子。府中のほうが森っぽい?
「武蔵名勝図会 第三、第四(府中、八王子)」

明治時代になると多摩郡はいったん東京府と埼玉県の一部(当時の入間県)に入りますが、すぐに神奈川県へ移されてしまいます。それは、多摩郡にあった外国人遊歩地を神奈川県が管理したいという理由からでした。
幕末の開国以降、外国人は居留地に住むことを義務づけられており、その居留地から半径約40キロメートルの範囲にはレクリエーションのための遊歩地が設けられていました。
神奈川県は多摩郡のうち、外国人遊歩地部分のみを神奈川に置いてほしい、と政府に願い出たのですが、政府はその意図を汲まず東京府と入間県に「多摩郡を神奈川県に引渡すように」と命じてしまいました。こうして多摩全体が神奈川県に属することになったのです。(あれまあ!)

中野と杉並は東京府へ

これに対して反対の声が上がりました。
東京府に隣接し、地理的にも経済的にも東京と関係が深い多摩郡東部の村々からです。この願いは認められ、明治5年(1872年)中野村をはじめ31村が東京府へ移管されました。現在の中野区と杉並区です。こうして多摩郡は神奈川県と東京府に分かれたのです。

神奈川県に編入された多摩は広いので三つの郡に分かれました。これが西・南・北多摩郡。いわゆる「三多摩」です。

多摩地域は西と南と北に。そして神奈川に。 「神奈川県管下之図」(明治16年)を基に作成

ポイントは水


さて多摩が東京に移った理由には水が大きく関係しています。その辺の経緯もみていきましょう。

多摩川水源地略図 
明治11年(1878年)9月に東京府が行った多摩川水源地の調査結果を図にしたもの

今も昔も水は生活になくてはならない資源です。
江戸時代、江戸城への水は玉川上水から供給されていて、幕府によって厳重に管理されていました。しかし当時、上水路の約7割が神奈川県にあり、東京府は他県について直接管理ができませんでした。水路上に船が走ったり汚水が流れ込んだりと問題が起きていました。
また明治19年(1886年)にコレラが大流行

虎列刺(コレラ)退治錦絵


意外な結末

東京府は玉川上水沿岸と上流の水源地を含む西多摩郡、北多摩郡を東京府に移してほしいと願い出ますが、無念、これは却下されてしまいます。
その後、明治25年(1892年)、東京府知事・富田鉄之助氏が動きます。
玉川上水上流の水源涵養林保護、安全で安定した水の確保、多摩川の伝染病取り締まりなどの警察権を得るために多摩川沿岸の西多摩郡、北多摩郡の移管を主張しました。
すると神奈川県知事・内海忠勝氏が「南多摩郡も東京に移していい」と言うのです。実は南多摩郡には県知事と対立していた勢力があり「東京府に移管させてしまいたい」という思惑があったのでした。

第12代東京府知事富田鉄之助肖像画

こうして西・南・北多摩郡は明治26年(1893年)4月1日神奈川県から東京府へ移管されました。法案提出から移管実施までわずかひと月あまりのスピード移管でした。

三多摩郡引継書類(左) 神奈川県引継書類(右)
明治26年、現在の多摩地域が神奈川県から東京府に移管されたときの公文書

しかし、移管はしたものの、しばらくは混乱が続きました。
4月5日から8日に多摩地域を視察した富田府知事は青梅町に向かう道中、移管反対派に囲まれ土の塊や砂を投げつけられたり、暴言や暴行を受けたり。しかし府知事は根気強くその者たちを諭したそうです。エライ。


その後の変遷

明治26年と昭和18年の多摩地域。違いがわかるかなあ?
見比べるとだいぶ村から町になっているのがわかります。また立川や八王子は市に。拝島村と立川村の間の地域は昭和町に。長岡村などと周辺が合併して瑞穂町に、などなど。
ほかに大きく変わったところは、現在の西東京市の前身・保谷市は、以前は埼玉県の保谷村でしたが、明治40年に東京府北多摩群へ編入。また北多摩群だった千歳村・砧村(現在の世田谷区千歳船橋、砧地域)は、昭和11年に東京市へ編入し世田谷区に配属されたのです。地図を見ると多摩地域からは消えていますね。

展示の廊下で多摩変遷パズルを作成。昔と今の多摩の地図をマグネットのピースで埋めていきます。これがなかなか楽しかった!

多摩が東京に移るまでいろいろなドラマがあったのですね、知らなかった。
昭和18年に東京府と東京市が廃止され「東京都」が設置されることになりますが、これまた一筋縄ではいかなかったようで・・。
「その辺ももっと知りたい」という方は東京都公文書館に足を運んでみてはいかがでしょう。資料がたくさんあります
ありすぎて何を見たらよいかわからなければ、公文書館のスタッフに聞いてみてくださいね。詳しく教えてくれますよ~。

「東京府文書にみる多摩と東京 多摩地域東京府移管130年」を動画でも紹介しています。

東京都公文書館
 
掲載資料 東京都公文書館蔵
・武蔵名勝図会 文政期 植田孟縉画(東京市写本) 
府中 請求番号:CI-228
八王子 請求番号:CI-230
・多摩川水源地略図 請求番号:芳野001
・虎列刺(コレラ)退治錦絵 請求番号:お114
・第12代東京府知事富田鉄之助肖像画 請求番号:肖像-012
・三多摩郡引継書類(左)請求番号:620.C8.05 
・神奈川県引継書類(右)請求番号:604.C6.04