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東京の鍛冶屋さん

広報広聴課です。
みなさんの家の台所にはおそらく一本は包丁があると思います。ない人もいるでしょうが、料理をする人だったら、きっと持っていることでしょう。
いまは包丁も工場などで作られることが増えたようですが、昔は町の鍛冶職人が一本ずつ作っていました。


鍛冶の歴史

「日本書紀」によると日本で鍛冶が行われるようになったのは583年。敏達(びだつ)天皇(第30代572-585年)の時代に新羅から鍛冶工が招かれ、はがねの鍛冶法を習ったのが始まりといわれています。
戦国時代には多くの刀鍛冶、鉄砲鍛冶が武器の生産に従事していました。やがて軟らかい鉄に硬い鋼(はがね)を接合する「着鋼法(ちゃっこうほう)」を生み出し、ソフトで切れ味の鋭い日本独特の刃物が生まれました。

江戸以降は

江戸時代中期になると、刀鍛冶のなかには日常生活に必要な刃物の製作に専念する者も出てきました。さらに明治4年の廃刀令が施行され、ほとんどの鍛冶職人は業務用・家庭用刃物をつくるようになっていきました。
昭和30年以降、農業の機械化や大量生産の安価な刃物が出回り、かつて日本各地にたくさんいた鍛冶職人は次々と廃業に追い込まれることに。

数はかなり減ってしまいましたが、いまも使う人を満足させる刃物を作っている鍛冶職人が残っています。
今回取材した葛飾区にある八重樫打刃物製作所もそのひとつ。

刀匠の流れをくむ

東京には江戸打刃物と東京打刃物の二つの鍛冶があります。
東京打刃物は明治以降に発展し、主に鋏をつくってきました。八重樫打刃物製作所は、刀匠(刀鍛冶の別名)の流れをくむ江戸打刃物の鍛冶屋。代表の八重樫宗秋さんは刀匠宗秋(むねあき)の四代目を名乗っています。

八重樫宗秋さん

創業は江戸時代後期。現在の岩手県で初代が日本刀の作刀技術を習得し、刀匠「宗秋」銘を授ったのが始まりです。
大正元年に二代目が東京で開業。日本刀のほか包丁・鑿(のみ)・鉋(かんな)など職人が使用する日本の伝統刃物の製作を始めました。
昭和3年に葛飾区に鍛冶場を移し現在に至ります。世界遺産の日光社寺修復にかかる刃物なども作成しています。

八重樫忠夫さん

先代の弟・八重樫忠夫さん。15歳くらいからこの道に入り約70年。88歳現役で毎日鍛冶場に通っています。

一丁ずつ火を造り、何度も槌でたたく。鉄の組織が緻密になり硬く強い刃物になります。

みなさん、涼しい顔をしていますが、火を焚くので工房の中は暑いというより熱い。見学しているわたしたちも汗がしたたり落ちます。

包丁づくりで採用している「安来鋼」は島根県で精製。切れ味がよい金属。切れ味が落ちても研ぎ直しすれば元の切れ味に戻るのだとか。

後に続く人たち

八重樫さんの鍛冶場には若手の働き手が二人います。一人は九州から来た大月正高さん。「昔から包丁が好きでものづくりにあこがれていました。人生は一度きり。やりたいことをやってみたいと思って」
いま八重樫さんのところに来て5年目になりました。「武骨な鉄が洗練された刃物へと変化する過程が面白い」のだそうです。

大月正高さん
小沼亮介さん

もう一人は6年目の東京出身の小沼亮介さん。職場見学会に参加して興味を持ったのだそう。「よそのところでやらないものを作れるようになっていきたい」

「日本料理の板前さんや彫刻家、仏像を彫る人など刃物を扱うプロの人たちは、鍛冶屋の後継者のことを心配しています。うちには弟子が二人。よかったと思っています」と宗秋さん。

ベテランと若手。なんだかいい感じです。これからも協力してよいものを作っていってほしいです。

八重樫打刃物製作所

注:撮影は2022年6月に行いました。

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